臨機応変に対応する
みなさんこんにちは
毎日暑いですね…もう溶けそうです
先日会合で設備関係の仕事をしている方とお話しする機会があり、「エアコン設置など大変でないですか?」と聞いたところ、「エアコン設置する人たちが熱中症で倒れて大変だ」とのことでした
エアコンを設置する部屋は普通に考えてエアコンがついてないでしょうから、ものすごく暑い空間や外で仕事をしているのだと思います
私は、高校卒業してからずっとこの仕事しかしていないので、寒暖などで大変な思いをしたこと自体あまりありません
しかし、そういった人がいるからこうして涼しいところで仕事ができていることを忘れてはいけませんね
さて今回は、松下幸之助著「人を活かす経営」より、<臨機応変に対処する>をお送りします。
米沢で最も有名といってもいい上杉謙信のお話となります。
お互い人間は、規則とか決まりというものをよくつくる。
つくって、それをお互いに守りあおうとする。
これは大切なことで、お互いが決まりを守ってこそよき秩序が保てるのである。
そして秩序が保たれていてこそ、お互いがそれぞれの活動をスムーズに進めることができる。
だから、そこによりよき成果があがって、みんなの生活が向上することにつながる。みんなのための規則であり、決まりなのである。
それはそれでいいけども、しかし、その決まりや規則を守ることのみにとらわれてしまうと、これははたして好ましいかどうか。
その点を、ときにお互いに振り返ってみる必要がないだろうか。
上杉謙信といえば、川中島で武田信玄と一騎打ちをしたという有名な戦国武将であるが、その上杉謙信にこんな話があるという。
すなわち謙信は毘沙門天という神を信仰していた。
七福神の中にも入っている神で、この神は悪魔の軍を降伏させて仏法を守護する神だという。
謙信はこの神を信仰していたので、旗印には毘沙門天の“毘”の字を使っていた。
“毘”の字の旗をひるがえした上杉の軍勢の行くところ、向かうところ敵なしといえるような強さを誇っていたのである。
また、毘沙門天を信仰していたので、何か大事な誓いとか約束などをする場合には、みんなで毘沙門堂に集まった。
そして上座へ謙信がすわり、家老はじめ家中の人々がそこにズラリと並んで座った。
そういうような形の中で、厳粛かつ真剣に誓いをたてたり、約束事をしたわけである。
だから、そうした場所での誓いや約束は、おのずと権威もあり、互いにこれを固く守ったことであろう。
ところが、あるとき隣国に一揆がおこった。
農民たちが領主に反抗して決起したのである。これは大事件である。
うっかりすると、上杉の領内にも及んでくるかもわからない。そうなっては大変である。
しかし、それにどう対応するかということは、一揆の規模とかその状況を実際に見てつかまないことには何とも決められない。
そこで謙信は、隣国へ間者を急いで派遣することにした。
いってみれば、情報収集のための調査員を急行させるというわけである。
しかし、派遣するといっても、当時の隣国といえば、全く別の世界である。
間者ということが知られたら、とらえられて、殺されるのがいわばふつうの姿である。
だから、調査員も命がけである。戦いに行くのと変わらない。
そこで、この間者を派遣するに際して、神文をさせた。
つまり、神の前で誓いをたてた文を読み上げるのである。
家来のものが言った。
「それではさっそく、いつものように、毘沙門堂へ行って、毘沙門天の前で神文をさせましょう。」
これに対して、謙信はこたえた。
「いやいや、今はそんなことをしている暇はない。事は急を要するのだ。いつ一揆がこちらへおしよせてくるかもわからない。すぐにその状況をつかまないといけなのだ。今から毘沙門堂へ連れていったのでは、それだけ遅くなってしまう。もう毘沙門堂へは行かなくてよい。私の前で神文させよ」
家来たちはおどろいた。こんなことは今までになかった。
とくに、長い間のしきたりに慣れている老臣たちは、これはおかしい、これはいつもの決まりに反する、ということで、ブツブツ言った。
その姿を見て、謙信はどうしたか。別に腹も立てない。ニッコリ笑って次のように言ったのである。
「考えてもみよ。私があるから毘沙門天が用いられるのだ。私が信仰しているから、毘沙門天が使われてるのだ。もしも私がいなければ、別に毘沙門天が使われることはなかったであろう。ほかのどの神だっていいわけだ。だから、私が毘沙門天を二、三度拝んだら、毘沙門天も私を三十度も五十度も拝んでいただいてちょうどいいくらいだ。
だからこの場は、私を毘沙門天と思って、私の前で神文をさせればそれでいいのだ」
これを聞いて、家来たちもやっと納得がいった。
わざわざ毘沙門堂までいかなくても、謙信の前で神文をさせればよい。
ふつうの場合ならともかく、こういう緊急の場合はそれでもよい。
なるほど、わかった、というので、みんなは納得して、間者にその場で神文をさせた、というのである。
(中略)
いずれにしろ、臨機応変ということである。
そして臨機応変が本当にできるためには、やはり、人間が主座を保っていなければできにくいのではなかろうか。
あれはああしなければならない、これはこうでなければならないというように、しきたりや決まりにとらわれていては、臨機応変は難しいのである。
やはり、常に人間が主座を保ち、主体性を保持していて、はじめてそれが可能になる。
我々の日常の仕事にしろ、会社の経営の上においても、また商売の上においても、そういう謙信の態度は、大いに参考とすべきものがありはしないと思うのだが、どうであろうか。
これを最近久しぶりに読んで、「ああ、昔も今も変わらないものだな」と感じてしまいました。
人は年数が経てば経つほど変化に否定的になるのだなと、「前のほうがいいに決まっている」という固定概念がどうしても先行してしまいます。
でも、いつの世も常に変化をしていかなければ時代に取り残されてしまいます。
だから、変化を恐れずに立ち向かっていかなければならないと思います。
自分もだんだんと年齢を重ねるとそうなるのかもしれないと自分を律していきたいと思います。
それではまた!